阪神大地震の回顧     2001年1月

995年 1月 17日の 午後2時半に 横浜の長津田キャンパスを 車で出発しました。
翌18日の 朝11時ごろ 芦屋に到着しました。 同日深夜 横浜へ出発、 翌朝帰還。

地方自治体の対応、 自衛隊の対応は 非常に早かったと 感謝の念で一杯でした。
それとは逆に 次の日の早朝、 あんな壊滅状態にも関わらず 通勤のために車で
会社に行こうとした多くの人々に 腹が立ちました。
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                    一回目の話

17日の午後2時半に 横浜インターから東名高速に入ってしばらくして、 赤い車の
長い軍団を追い抜きました。 横腹には 東京消防庁と書いてあったのを思い出します。
彼らに負けじとアクセルをさらに踏みました。

順調に名古屋を過ぎ 小牧近くの休憩所のトイレに入ると、 カーキ色の服を着た
若者が大勢いました。 「どこ行くねん」 と訊くと、 「小牧の陸上自衛隊のものです。
神戸へ救援に向かいます。」 涙が出るほど 嬉しかったのを思い出します。

さらにしばらく走り、琵琶湖に近づき、 ふと右の東京方向の車線を見ました。
警察や 自衛隊の車が 西宮方向へ走っているではないですか。 びっくり仰天すると
共に、 目頭が熱くなったのを思い出します。

八日市付近だったと思います。 高速道路から追い出されました。 ここから先は
渋滞、 渋滞、 また渋滞でした。 京都に入ると 眠気のため、 2、3時間仮眠を
取りました。 勝手知ったる西国街道をカタツムリのように通ると、明るくなり ました。

西宮に入ると 屋根がぐしゃっと潰れた家々が目につくようになりました。 しかし
渋滞は 一向に収まりませんでした。 そのはずです、 通勤の車が次から次へ
そこから かしこから 出てきたのです。
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                    二回目の話

西宮から抜け出るには 六甲山へ登ればよい! 40年前 毎週のように やっていた
自転車登山を 思い出しました。 一旦、 二国へ出た後、 山へ山へと上がりました。
川沿いの道に 亀裂が入っていて 慎重に迂回しました。 甲山の手前で西へ行き、
苦楽園を通って、 岩園町に入りました。 昔の面影は ほとんどありませんでした。

が、 ここまで来れば こちらのもの。 真っ直ぐ宮川沿いに 母校 岩園小学校を左に
見ながら下りました。 山の家はほとんど 壊れていませんでした。 省線の手前で
右折し 芦屋駅を通り過ぎました。 駅前のビルは 斜めに傾き 危険でした。

たくさんの人が 右往左往していました。 空いている場所に駐車し、 マンション
3階 (高さは5階) まで階段を上りました。 エレベータは動きませんでした。
ドアをたたくと 呆然とした の姿が 見えてきました <まさか 私が来るとは!>

それもそのはずでした。 途中 何回も電話を入れようとしても、 不通だったのです。
家の中は めちゃくちゃでした。 木の床の上の冷蔵庫、 食器、タンスは滑り、 倒れ
なかった。 しかし、 棚から食器が落ち 割れて危険でした。 畳の上のタンスは倒れ
テレビも下に落ちていました。 仏壇も倒れました。

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                  回目の話

とりあえず 倒れたタンス、本棚、机、テレビ等を起こしていきました。 ガラスの破片に
注意しながら作業しました。 午後、 階下に下りて様子を見ました。 サイレンが鳴り
芦屋川のさらに向うの神戸側でガス漏れあり、 近寄るなとの警報。 それで帰れなく
なった軽装の若い神戸側からの4人組と話しました。 「近くの建物は潰れました。
遠くがどうなったか興味があり、芦屋に来ました。」 これを聞いて 憤懣やる方ありま
せんでした。 なぜ近くで救助作業に入らなかったと。

母の住むマンション管理室にトイレがあります。 ここへ列をなして順番待ちでした。
烏合の衆には大将が必要です。 私が学生風の男に声をかけました。 「君の所で
水が出なくなって糞詰まりになるのは分かるよね。 すまんけど、 このバケツ2はいに
芦屋川の水を汲んできてくれへんか。」 この後、公衆電話が使えることを知る。

このマンションの1、2階の壁面に深い亀裂がありました。 それに加えて 一番階下の
部屋のドアが開閉不可能になっていました。 幸い半壊で住みました。 母の家にも
問題がたくさんありました。 わずかな亀裂が壁に見えるだけで 住むには差し障りが
ないが、 飲み水がありませんでした。 井戸水の噂を聞き、バケツを持って外に出ま
した。 行きはよいよい帰りはこわい、 水は重い、 2度と汲みに行けませんでした。

「お母さん、水がないと生活が難しい。 申訳ないけど、 これから横浜に来てください。」
「冷蔵庫の中のなま物を片付けて行こ」 という訳で、 肉を対流式灯油ストーブ上の
フライパンで焼きました。 昔式のストーブでよかったですね。 その他の なま物/ゴミを
車に積み込みました。 このようにして、 到着した日の夜に 名神高速に乗っかりました。


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                  最終回の話

西国街道を通って 行きと逆方向に走り、 京都を過ぎてから名神高速に乗りました。
帰りは順調に走り、 休憩を繰り返して、 翌朝 母とともに帰宅しました。 私は眠る
間もなく朝食を済ませた後、 第3京浜を通って 大岡山に直行です。 午後一番の
授業で 6〜7人の学生相手に 予定通り解説討論を行いました。

テレビのニュースで 電気、 水道、 ガスと 徐々に復興の兆しが見えてきた3月末に、
母を自宅に送り届けることになりました。 知人のいない横浜では 電話で話す以外
楽しみが なかったようです。 芦屋の町並みは 地震直後と変りありませんでした。
線路を隔てて向かいのアパートは倒壊したままでした。 駅前のあの建物も 傾いた
ままでした。

しばらくして、 半壊の家々に見舞金の5万円が配られたそうです。 全壊でも10万円
だったということです。 トイレの水の教訓を生かし、 横浜のマンションのベランダに風
呂桶を置くことにしました。 その中に 芦屋川で捕まえた よしのぼりや、 子供の国で
とったタナゴ、 それに夏祭りでもらったドジョウを入れました。 ボウフラが わくのを防止
するために飼っています。 浮き草を入れて 暑さよけにしています。

途中 2台目のステンレス風呂桶を入れました。 ベランダ改装のため 初代プラスチック
桶は捨てました。 餌はまったく与えませんが、 現在 ドジョウと タナゴが1匹づつ生き
ています
台湾リスの小屋とともに これからも末永く、 地震が起こるまで ベランダに
これらが存在しつづけるでしょう。

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